戦国真田紀行 4

真田氏のルーツ

 

 さて真田氏である。江戸時代に松代藩で編まれた歴史書『滋野世記』によれば、真田氏中興の祖といわれる幸隆は、海野棟綱の嫡男、つまり海野氏の嫡流であるということになっている。 

 棟綱の嫡男である幸隆が真田郷に住み、真田姓を名乗ったというのだ。一方他の資料では棟綱の娘の子、つまり棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、生まれた子が幸隆であるということが記されている。 

 後に記すように、真田という名の豪族が古くから真田郷にいたことが様々な史料から説明されているので、現在では後者の方が信憑性はあるとされている。

 『滋野世記』は江戸時代になって松代藩で書かれた歴史書であり、幸隆を海野氏の嫡流としたのは、十万石の大名真田家の系譜を由緒正しいものにしたいという意図がはたらいていたものと思われる。 

 海野氏は滋野一族の頭領を自認していた。滋野一族は、清和天皇の第四皇子である貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜五年(九〇五)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことにはじまるとされる。 

 滋野氏はその後、領地である海野庄にちなみ海野を名乗るようになる。海野氏の初代は重道であり、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。これを滋野氏三家と呼ぶ。

 しかし、これらの話はあくまでも「とされる」程度のことであり、実際に海野氏が清和天皇に源を発しているのかどうかは定かではない。公式の記録では、清和天皇の皇子に貞保親王の名前はない。 

 滋野一族の祖は貞保親王ではなく、都の貴族が国牧の管理者として信濃に下向し、土着したものであるとの説もある。 

 古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名であった。中でも望月の牧は、信濃の国十六牧の筆頭に数えられていた。紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。「望月の駒」はそれほどに都でも名が通っていたのである。 

 滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったというのだ。 

 その滋野一族の小豪族であった真田氏もまた古代には国牧の管理者であったのだという。その頃は真田町傍陽の実相院のあたりを本拠にしていたのではないかとされている。

 傍陽は真田から地蔵峠を越えて松代に至る県道の登り口にある山峡の集落である。ここはまた菅平の麓にあたり、このあたり一帯に広がる牧の管理者として力を蓄えたのではないかと思われる。