戦国真田紀行 3

真田の郷    

 

 真田郷は山国信州に多くあるごく普通の山村である。見上げれば四阿山烏帽子岳といった二千メートル級の山々が背後に連なり、そんな高い峰の麓にわずかばかりの田畑がひろがっている。 

 真田郷は現在上田市真田であるが、二〇〇六年の平成の大合併までは長野県小県郡真田町であった。隣接する上田市と合併したのである。 その旧真田町もそれほど古い歴史があるわけではない。昭和三十三年(一九五八)小県郡長村、同傍陽村、同本原村が合併してできた町である。

 真田という町名は公募によって決まった。有名な真田氏に因んでのものといわれている。その旧長村に真田という地区があって、ここは一八七六年までは真田村であった。

 かつて上田駅とここ真田郷の間を小さな私鉄が結んでいた。上田交通真田・傍陽線である。菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」真田の発展のために建設を決意したのだという。 

 一九七二年、押し寄せるモータリゼーションの波に勝てず廃線となったのだが、終点の真田駅は旧長村の真田地区にあった。

 駅舎があったあたりは、現在農協の支所となっている。ここから歩いて五分ほどの場所にあるのが山家神社である。真田氏の産土神だ。 

 山家神社は小県に四社ある「延喜式内社」のひとつで、その由緒は古い。この地区の産土神であるとともに加賀の白山社を合祀している。この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山の山頂にある。四阿山日本百名山の一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。 

 山家神社の拝殿は深い社叢のなかに建っている。だがこの森は意外にも歴史が新しいのだという。明治二十年の真田大火で大方が焼け、大正のはじめ植林されたものが育ったのである。とすれば、真田の集落はこの時の大火で大きな被害を受けたのであろう。