戦国真田紀行 1

 信州小県の中心都市上田から真田を抜け、上州に至る国道一四四号線は、上信国境で鳥居峠を越える。

 大正から昭和にかけて一世を風靡した立川文庫の『猿飛佐助』では、佐助の生まれをこの辺りとしている。

 すなわち、「処は信州鳥居峠の麓に鷲塚佐太夫と云う郷士があった。元は信州川中島の城主森武蔵守長可の家来であったが、主君武蔵守小牧山の合戦に討死以来、根が忠義無類の鷲塚佐太夫二君に仕える心はないと、浪人して程遠からぬ鳥居峠の麓に閑居なし、少々の貯えあるに任せ田地田畑を買求めて郷士になった、此の佐太夫に二人の子があり、姉は小夜、弟は佐助云々」というわけである。

 その猿飛佐助がここ鳥居峠の山中で剣術、忍術の修行を励むのだが、その師となって教えるのが戸沢白雲斎であった。 

 猿飛佐助は、後に真田幸村の家来となり、真田十勇士となって活躍することになるのだが、もちろん架空の人物である。戸沢白雲斎も立川文庫の創作である。 

 森長可は実在した。織田信長の家臣で、信長の小姓として本能寺で戦死した森茂利(蘭丸)は実弟である。信州川中島の城主(海津城)であったのも事実で、武田氏滅亡後信長よりこの地の仕置きを任された。 

 しかし、森長可川中島の領主であったのは、織田信長が本能寺で横死するまでであった。

 鷲塚佐太夫が森長可の家臣であったとしたのもまた立川文庫の創作であろう。 

 まさに虚実取り混ぜての「立川文庫」の筆致であるが、その作者はおそらくこの辺りには一度も来たことがなかっただろうと思われる。 

 立川文庫のほとんどは、講談師玉田玉秀斎とその家族の共同作業によって生み出された。その現場はさながら、現在のアニメのプロダクションのようなものであったようだ。「みんなの原稿書きは、まず朝の七時ごろからはじまる。それから夜の九時ごろまで、机に向かったが最後、もう傍見をする暇もないというふうだった。(中略)参考書といっても机の上に『道中地図』と『武鑑』が置いてあるだけ。一日五十枚から六十枚。日によっては七十枚も書き飛ばさねばならない。」(池田蘭子『女紋』)

 こんな状態であったから、もちろん取材に信州に行くことなど考えられなかったはずだ。しかし、鳥居峠は現代でもいかにも猿飛佐助が忍術の修行をしてもおかしくないほどに、鬱蒼とした森が覆っている。

 真田の物語とは切っても切れない縁がある立川文庫については、後に記すことになろう。ここはまず天文十年(一五四一)鳥居峠を越えて上野の国に逃れた落武者たちのことを語らなければならない。