戦国真田紀行 2

海野平の戦い    

  五月というから現代の暦に直せば盛夏である。濃い緑の森に覆われた峠道を、一群の武士団とその家族が先を急いでいた。あるものは馬の背にのり、あるものは徒歩であったが、彼らはいちように疲れた足取りを運んでいた。中には手負いのものもいた。

 国境の鳥居峠を越えると、そこは上野国吾妻郡である。人々の顔に安堵の色が広がった。武田の追っ手はここまではこまい。ここは関東管領上杉憲政の勢力圏である。 

 一行は故郷を追われ、箕輪の長野業正を頼って落ちのびる真田幸隆とその家族、家臣たちであった。  

 この年、甲斐の武田信虎は信濃の豪族諏訪頼重、村上義清を誘って信州小県の海野棟綱を攻めた。後にいうところの「海野平の合戦」である。

 海野氏との繋がりの深かった真田郷を地盤とする豪族真田幸隆も兵を率いて出陣した。

 主戦場となったのは、海野宿のあたりであるといわれている。

 海野宿は、中山道を追分で分かれ、善光寺に向かう北国街道の宿場である。現在でも古い家並みがよく残されており、江戸時代の宿場の情緒を求めて訪れる観光客も多い。 

 その海野宿の追分側の入口あたりに白鳥神社という古い宮がある。この白鳥神社こそは、海野一族の氏神であり、海野氏の本拠はこのあたりであった。 

 もっとも激しい戦いは海野宿の近く、千曲川との合流点近くの神川の河原で行われ、ここで海野棟綱の嫡男幸義が戦死している。

 敗れた海野棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野に逃れた。海野氏の救援に、憲政は三千騎の兵を信濃に送ったが、武田軍は既に引き揚げた後で、村上氏と戦うことなく帰還した。 

 結局棟綱は故国奪回の望みを絶たれ、失意のうちに上野で死去する。 

 一方真田幸隆上野国箕輪城の長野業正のもとに落ちのびた。真田と西上野地方は鳥居峠を挟んで道が通じており、古くから交流があった。 

 幸隆は永正十年(一五一三)に誕生したとされているのでこの時二十九歳。真田一族の若き当主であった。

 その真田幸隆、数年後には敵であった武田信玄の配下となり、信濃先方衆として信玄の川中島進攻に活躍するようになるのだが、それは次節に譲るとして、まずはふるさとである真田郷のあたりから真田氏のルーツを追って逍遥をはじめることにしよう。