戦国真田紀行 5

御牧    

 

 奈良時代信濃の国の国府は上田近辺にあった。ここが信濃の国の都であったのだ。

 上田市国分のしなの鉄道信濃国分寺駅の近くには、信濃国分寺史跡公園が広がり、資料館も建てられている。 

 国分寺は、天平十三年(七四一)の聖武天皇の詔により建設されたものだが、信濃国分寺もその頃の創建であると推定される。そして、国府の近くには、軍事用あるいは運搬用の馬を飼育するための国営の牧が置かれるのが普通であった。それが真田町周辺にも置かれていたのではないかというのである。

 その根拠として、「真田町やその周辺に牧の平という地名がいくつか見られること」「駒形神社が真田町の山家神社境内と、四阿山頂近くの群馬県側にあること」「菅平に夏季放牧の管理者の住居跡と見られる遺跡が発見されたこと」などをあげている。

 要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平や四阿山の麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として当てられていた。そしてこの牧の経営に当たっていたのが真田氏の祖先であったというのである。 

 この説は、信濃史学会の会長であった故一志茂樹博士と上田・小県誌編集委員会・真田町教育委員会が発表したものである。昭和五十一年から三年間にわたって真田町内を調査した結果、真田氏の出自についてこのような興味深い事実を発表したのである。 

 一志博士らの報告はここまでだが、この馬の放牧は真田幸隆が登場する戦国時代にまで受け継がれていて、この地方は良馬の産地として知れ渡っていたのではないか。

 当然のことながら、戦乱の時代になると馬は必需品である。武田信玄が真田に注目したのは、現代でいえば軍需産業ともいうべき、真田の軍用馬の生産技術ではなかったかとも思われるのだ。   

 やがて真田氏はその勢力を真田郷全体に及ぼしていくのだが、それとともに本拠をもっと里側に移している。その場所は、横尾、真田を経て、現在「お屋敷」と呼ばれているあたりが幸隆の時代の居館ではなかったかと思われる。

 真田の名がはじめて史料に現われるのは、『大塔物語』である。応永七年(一四〇〇)のこと、信濃の国の守護小笠原長秀の入国をめぐって、それを阻止しようとする国人領主たち(大文字一揆)との間で激しい戦いが起きた(大塔合戦)

 戦いは川中島平南部で行われ、国人領主たちが勝利した。この戦いの模様を記したのが軍記物語『大塔物語』である。 

 その『大塔物語』には、実田(真田)・横尾・曲尾といった武士が真田郷から参戦していることが記されている。また、永享十年(一四三八)の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが『真田町誌』にある。 

 真田幸隆が、この中世から続く真田氏の末裔であると考えるのは自然だろう。   

 清和天皇の末裔であるかは別として、真田氏のはじめは戦国時代信州小県の地に割拠する小豪族のひとつであった。多くの史料から勘案するに、真田郷は中世から有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。    

 

戦国真田紀行 4

真田氏のルーツ

 

 さて真田氏である。江戸時代に松代藩で編まれた歴史書『滋野世記』によれば、真田氏中興の祖といわれる幸隆は、海野棟綱の嫡男、つまり海野氏の嫡流であるということになっている。 

 棟綱の嫡男である幸隆が真田郷に住み、真田姓を名乗ったというのだ。一方他の資料では棟綱の娘の子、つまり棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、生まれた子が幸隆であるということが記されている。 

 後に記すように、真田という名の豪族が古くから真田郷にいたことが様々な史料から説明されているので、現在では後者の方が信憑性はあるとされている。

 『滋野世記』は江戸時代になって松代藩で書かれた歴史書であり、幸隆を海野氏の嫡流としたのは、十万石の大名真田家の系譜を由緒正しいものにしたいという意図がはたらいていたものと思われる。 

 海野氏は滋野一族の頭領を自認していた。滋野一族は、清和天皇の第四皇子である貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜五年(九〇五)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことにはじまるとされる。 

 滋野氏はその後、領地である海野庄にちなみ海野を名乗るようになる。海野氏の初代は重道であり、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。これを滋野氏三家と呼ぶ。

 しかし、これらの話はあくまでも「とされる」程度のことであり、実際に海野氏が清和天皇に源を発しているのかどうかは定かではない。公式の記録では、清和天皇の皇子に貞保親王の名前はない。 

 滋野一族の祖は貞保親王ではなく、都の貴族が国牧の管理者として信濃に下向し、土着したものであるとの説もある。 

 古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名であった。中でも望月の牧は、信濃の国十六牧の筆頭に数えられていた。紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。「望月の駒」はそれほどに都でも名が通っていたのである。 

 滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったというのだ。 

 その滋野一族の小豪族であった真田氏もまた古代には国牧の管理者であったのだという。その頃は真田町傍陽の実相院のあたりを本拠にしていたのではないかとされている。

 傍陽は真田から地蔵峠を越えて松代に至る県道の登り口にある山峡の集落である。ここはまた菅平の麓にあたり、このあたり一帯に広がる牧の管理者として力を蓄えたのではないかと思われる。  

 

戦国真田紀行 3

真田の郷    

 

 真田郷は山国信州に多くあるごく普通の山村である。見上げれば四阿山烏帽子岳といった二千メートル級の山々が背後に連なり、そんな高い峰の麓にわずかばかりの田畑がひろがっている。 

 真田郷は現在上田市真田であるが、二〇〇六年の平成の大合併までは長野県小県郡真田町であった。隣接する上田市と合併したのである。 その旧真田町もそれほど古い歴史があるわけではない。昭和三十三年(一九五八)小県郡長村、同傍陽村、同本原村が合併してできた町である。

 真田という町名は公募によって決まった。有名な真田氏に因んでのものといわれている。その旧長村に真田という地区があって、ここは一八七六年までは真田村であった。

 かつて上田駅とここ真田郷の間を小さな私鉄が結んでいた。上田交通真田・傍陽線である。菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」真田の発展のために建設を決意したのだという。 

 一九七二年、押し寄せるモータリゼーションの波に勝てず廃線となったのだが、終点の真田駅は旧長村の真田地区にあった。

 駅舎があったあたりは、現在農協の支所となっている。ここから歩いて五分ほどの場所にあるのが山家神社である。真田氏の産土神だ。 

 山家神社は小県に四社ある「延喜式内社」のひとつで、その由緒は古い。この地区の産土神であるとともに加賀の白山社を合祀している。この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山の山頂にある。四阿山日本百名山の一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。 

 山家神社の拝殿は深い社叢のなかに建っている。だがこの森は意外にも歴史が新しいのだという。明治二十年の真田大火で大方が焼け、大正のはじめ植林されたものが育ったのである。とすれば、真田の集落はこの時の大火で大きな被害を受けたのであろう。

戦国真田紀行 2

海野平の戦い    

  五月というから現代の暦に直せば盛夏である。濃い緑の森に覆われた峠道を、一群の武士団とその家族が先を急いでいた。あるものは馬の背にのり、あるものは徒歩であったが、彼らはいちように疲れた足取りを運んでいた。中には手負いのものもいた。

 国境の鳥居峠を越えると、そこは上野国吾妻郡である。人々の顔に安堵の色が広がった。武田の追っ手はここまではこまい。ここは関東管領上杉憲政の勢力圏である。 

 一行は故郷を追われ、箕輪の長野業正を頼って落ちのびる真田幸隆とその家族、家臣たちであった。  

 この年、甲斐の武田信虎は信濃の豪族諏訪頼重、村上義清を誘って信州小県の海野棟綱を攻めた。後にいうところの「海野平の合戦」である。

 海野氏との繋がりの深かった真田郷を地盤とする豪族真田幸隆も兵を率いて出陣した。

 主戦場となったのは、海野宿のあたりであるといわれている。

 海野宿は、中山道を追分で分かれ、善光寺に向かう北国街道の宿場である。現在でも古い家並みがよく残されており、江戸時代の宿場の情緒を求めて訪れる観光客も多い。 

 その海野宿の追分側の入口あたりに白鳥神社という古い宮がある。この白鳥神社こそは、海野一族の氏神であり、海野氏の本拠はこのあたりであった。 

 もっとも激しい戦いは海野宿の近く、千曲川との合流点近くの神川の河原で行われ、ここで海野棟綱の嫡男幸義が戦死している。

 敗れた海野棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野に逃れた。海野氏の救援に、憲政は三千騎の兵を信濃に送ったが、武田軍は既に引き揚げた後で、村上氏と戦うことなく帰還した。 

 結局棟綱は故国奪回の望みを絶たれ、失意のうちに上野で死去する。 

 一方真田幸隆上野国箕輪城の長野業正のもとに落ちのびた。真田と西上野地方は鳥居峠を挟んで道が通じており、古くから交流があった。 

 幸隆は永正十年(一五一三)に誕生したとされているのでこの時二十九歳。真田一族の若き当主であった。

 その真田幸隆、数年後には敵であった武田信玄の配下となり、信濃先方衆として信玄の川中島進攻に活躍するようになるのだが、それは次節に譲るとして、まずはふるさとである真田郷のあたりから真田氏のルーツを追って逍遥をはじめることにしよう。

戦国真田紀行 1

 信州小県の中心都市上田から真田を抜け、上州に至る国道一四四号線は、上信国境で鳥居峠を越える。

 大正から昭和にかけて一世を風靡した立川文庫の『猿飛佐助』では、佐助の生まれをこの辺りとしている。

 すなわち、「処は信州鳥居峠の麓に鷲塚佐太夫と云う郷士があった。元は信州川中島の城主森武蔵守長可の家来であったが、主君武蔵守小牧山の合戦に討死以来、根が忠義無類の鷲塚佐太夫二君に仕える心はないと、浪人して程遠からぬ鳥居峠の麓に閑居なし、少々の貯えあるに任せ田地田畑を買求めて郷士になった、此の佐太夫に二人の子があり、姉は小夜、弟は佐助云々」というわけである。

 その猿飛佐助がここ鳥居峠の山中で剣術、忍術の修行を励むのだが、その師となって教えるのが戸沢白雲斎であった。 

 猿飛佐助は、後に真田幸村の家来となり、真田十勇士となって活躍することになるのだが、もちろん架空の人物である。戸沢白雲斎も立川文庫の創作である。 

 森長可は実在した。織田信長の家臣で、信長の小姓として本能寺で戦死した森茂利(蘭丸)は実弟である。信州川中島の城主(海津城)であったのも事実で、武田氏滅亡後信長よりこの地の仕置きを任された。 

 しかし、森長可川中島の領主であったのは、織田信長が本能寺で横死するまでであった。

 鷲塚佐太夫が森長可の家臣であったとしたのもまた立川文庫の創作であろう。 

 まさに虚実取り混ぜての「立川文庫」の筆致であるが、その作者はおそらくこの辺りには一度も来たことがなかっただろうと思われる。 

 立川文庫のほとんどは、講談師玉田玉秀斎とその家族の共同作業によって生み出された。その現場はさながら、現在のアニメのプロダクションのようなものであったようだ。「みんなの原稿書きは、まず朝の七時ごろからはじまる。それから夜の九時ごろまで、机に向かったが最後、もう傍見をする暇もないというふうだった。(中略)参考書といっても机の上に『道中地図』と『武鑑』が置いてあるだけ。一日五十枚から六十枚。日によっては七十枚も書き飛ばさねばならない。」(池田蘭子『女紋』)

 こんな状態であったから、もちろん取材に信州に行くことなど考えられなかったはずだ。しかし、鳥居峠は現代でもいかにも猿飛佐助が忍術の修行をしてもおかしくないほどに、鬱蒼とした森が覆っている。

 真田の物語とは切っても切れない縁がある立川文庫については、後に記すことになろう。ここはまず天文十年(一五四一)鳥居峠を越えて上野の国に逃れた落武者たちのことを語らなければならない。